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廻転椅子に肥つた身体を一見窮屈さうにはめこんだまゝ、房一はその捉へにくいものを捉へようとするかのやうにぢつとして考へに耽ふけつた。回想はいろんなことに飛んだ。結婚当初の、あのはじめて我が手の中にしつかりとつかんだといふ気を起させた盛子の、靱しなやかな身体がつくり出す自然な女らしいしな、健康な溢れるやうな慾望、――口のあたりをもごもごさせる徳次、滑つこい河石、――相沢へ往診に行く途中の坂路で、ずつと上の方から自転車をぴかりと光らせながらだんだん大きく現れて来た、あの印象的な大石練吉との邂逅かいこうや、盛子の妊娠、道平の卒倒(その道平はあれから経過がよくて、今では多少不自由ながらぼつぼつ歩き出すほどになつていた)だのいふことが、その一つ一つはそれこそ手につかめるほどにはつきり目の前に浮んで来ながら、全体としてはひどく遠い前のことだつたやうにも又つい昨日のやうにも思はれるのであつた。それらのことは、房一とは切つても切れぬものとして、何かしら意味があるやうに感じられもしたが、同時に部分々々としては記憶の中で精彩を放つにすぎない互ひに独立した、単に印象の鋭いいくつもの火花のやうにも思はれた。それがあの一年といふものだつた。すべてが一年の中に過ぎて隠れこんでしまつた。これがあの「過ぎ去つた」ことだつた。しかも、過ぎ去つたといふ決定的な響きにもかゝはらず、それは何といふとりとめもない曖昧なものだらう。あらゆることが、あのつい二三ヶ月前に鬼倉と対むかひ合つた晩のことさへ、まるで他愛のない、夢の中の出来事としか思へないのであつた。しかも、相手の隈取りのやうな荒い皺の走つた顔や、静かで不気味な落ちつきと、低い力のある声などは、今でも軽い戦慄を思ひ出させるのではあつたが――。それは或る夜の突発的な情慾のやうに、何かしら後うしろめたい気持さへ感じさせた。が、それさへも過去のなだらかな手つきによつてぼかされ、平坦になり、記憶の中にいくらか異様な突起を見せているに過ぎなかつた。あれから、鬼倉とは往診の途中で一二度会つた。彼は例の荒い皺を、あの晩のやうに深く険けはしくはなく、ゆるめて、そのために一層老人臭い顔になりながら会釈ゑしやくをした。そして、一度は手にできた皮膚病を診てもらひに房一のところに来さへした。その時のことであるが、彼はふいに自分の死んだ一人息子の話をした。
「をかしいから笑つたのだ」
とてもそんなことは!といふ風に房一は答へた。
かういふことになると、彼の話振りには一種の無邪気さが現れて釆る。
地名も旅館の名もしばらく秘しておくが、わたしがかつてある温泉旅館に投宿した時、すこし書き物をするのであるから、なるべく静かな座敷を貸してくれというと、二階の奥まった座敷へ案内され、となりへは当分お客を入れないはずであるから、ここは確かに閑静であるという。なるほどそれは好都合であると喜んでいると、三、四日の後、町の挽ひき地物じもの屋やへ買物に立寄った時、偶然にあることを聞き出した。一月ほど以前、わたしの旅館には若い男女の劇薬心中があって、それは二階の何番の座敷であるということがわかった。
「さうだ、君はあの時の射撃大会に出たさうだね」
そのとき、女房に命じて、温泉を加熱する装置を施してもいいか、ときかせると、
「ちつとも知りませんでしたよ」
房一が声をかけて回転椅子を押しやると、
「ですが、何とも手のつけやうがない」
「先生、どうしなさる?着て行きますかい」
ふいに冷気が盛子の咽喉もとから胸の中へしみこんだ。その時、夢の中でよくつかめないながらも何か急に閃ひらめき過ぎる考へのやうに、これが結婚といふものか、これが仕合せといふものか、といふ思ひがどこからともなくやつて来た。しかもそれは考へた瞬間にさつと身をひるがへして去り、だが印象だけは強くのこる、あの微妙な閃きだつた。
その住居の端々はしばしにまで行きわたつている潔癖さは、同時に大石正文夫妻の年来の好み、その生活の信条といつた風なものをも漠然と現はしていた。